「五七五」
mimaculワークショップ第2回目のテーマは「五七五」
ほとんどのメンバーが俳句初心者である。うまくできなくても構わないのでとにかく五七五の十七音、季語の縛りの中で何ができるか、トライアルとして挑んでもらった。
一般的な句会の形式にならって全員に当季雑詠で三句投句してもらう。作者を伏せた状態でシャッフルした句集を返信し、そこからそれぞれ特選一句並選二句を選ぶ。点数を事前に集計し、顔を合わせた句会では得票数の多かった句から全員で批評していく。
今回は句会301より画家、俳人の山本真也さんをゲストにお迎えし、句会の進行もお願いした。山本さんは句会初心者であるメンバーの批評が的確だと感心されていた。俳句はただ鑑賞しているだけよりも、自分で作って人の作品を批評することでおもしろみが3倍増しくらいになる。
3分の1季語に取られるし残された余地は十数文字。俳句をやってみたほとんどの人はまずその身動き取れなさを味わうのではないだろうか。小川軽舟の俳句入門に「俳句は型に身をゆだねることによって言いたいことから解放される」とあった。言いたいことから解放されるとはどういうことだろうか。mimaculでは最終的にそれぞれが書きたいものを書くことができればいいのだけれど、なんでも自分で選べる前に、この強固で簡素な詩型を経験することには何かしら発見があるはずだと思った。
季語という連綿と詠まれてきた言葉を積極的にインストールし、型の中でどうやって息をするか、どう動くか。とても身体的な感覚を動員する。そして野放しのままでは気づかなかったものや選ばなかったものに触れることになる。俳句を知る前は余生にたしなみとしてやるもの、花鳥諷詠をのんびり詠んでいるくらいのもだと思っていたけれど、実は全然そうではない。
山本さんには俳諧の歴史について宗祇〜芭蕉〜子規〜虚子〜戦後〜現代と主要な俳人と作品を紹介しながらお話しいただいた。いつの時代もある傾向が生まれると、それに対する反発や新たな価値観を求める動きが生まれ、また行きつ戻りつしながら、時代の風を受けて更新されていく。たった十七音だけどホントにされど十七音。
mimaculメンバーのたまなまやさんが今回のワークを体験したレポートを寄せてくださった。↓
先日、初めて俳句を詠んだ。
句会のようなところで、互いの句を評し合ったのだけど、自分の詠んだものも思いのほか好評で、にまにましている。句を作るときは、子育ての慌ただしさのなかでも、ふっと頭というか、目のモードが切り替わる感じがあった。それはカメラのピントを合わせるときに似ていて、その瞬間や情景にすーっとフォーカスしていく。そうすると、流れるような時間が一瞬切り取られて、例えば子どものただのイヤイヤ期で困ったなぁ、という出来事が、よい俳句になったりする。これは視野が狭まりがちな子育て中によいかもしれない!
そして、世界一短い文章表現といってもいいだろう、五、七、五という短い言葉の連なりだけでも、思いのほか読む人は多くの情報を受け取って想像を逞しくしてくれるものなんだと、評をもらって少し驚く。「ちゃんと伝えたい」裏を返せば「私の思いを正確に読み取って」という相手への期待というエゴをまとっている日常。会社の書類、説明書、果てはトイレの中まで過剰な注意書が追いかけてくる社会。「わかりやすさ」は脅迫的に私たちの暮らしにはびこっている。
それは「伝わるかな」という切実な願いと不安でもある。そこから、自分も相手もほんの少し自由にしてあげる。受け取る側の自由、想像の余白を託す。そうすることで、作品が完成していく。それが俳句を詠むこと、そしてすべての表現活動に通じることなのかもしれない。
それは、この世の中で生きる私たちにほんの少し、息をしやすくさせてくれる。わかりにくくっても、誤解してもされても、大丈夫。自分が楽しければいいと、軸を自然と戻してくれる。
なんてことを思った夏。
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