「書くことと体」千葉雅也さんトーク
mimaculの企画初期段階で、書くことを職業になさっている方をゲストに招く回を入れたいと考えていた。兼ねてから興味のあった千葉雅也さんにオファーを出した。ご多忙の間を縫って来ていただけることになった。
著書やツイッターに触れてはいたけれど、ご本人はどういう感じだろう。やや緊張しながら待っていたけれど、とてもフランクにお話ししてくださる雰囲気でホッとした。
「書くことと体」について、千葉さんの様々な懊悩から生み出された職人的に書くための方法を軽やかな脱線を含みつつ色々ご紹介いただいた。例えば完璧を求めすぎてしまったり、書こうとして行き詰ったり、うまく書けないというときに「何かができない」という意識を解くために箇条書きでそれについて書いていく、という作業が原稿を書く段階に含まれているという。千葉さんはアウトライナーというアプリをオフラインのツイッター的なものとして使って、思い浮かんだことを選別せずに書いていく。箇条書きだとそれほど長い文章は書けない。そうやって思考を区切っていくことで問題を整理していく。「有限化」していくことで広大な白紙の前でどう初めていいのかわからない、という身動きの取れなさから動きを生み出していく。なおかつそこには箇条書きという制限がかかっているので、ある程度のところで留められる。動きを生むことと動きすぎないこと。可動域を仮に設定することで発見されるムーブメントがある。
ドラフトとエディットモードの自分を分けるために、フォントや背景色を変えるというのもおもしろかった。明朝体だとゴシック体より見た目の壮麗さがあり、視覚的に満ち足りるので、ドラフトモードのときはそのノリも利用して自己検閲の目をできるだけ差し挟まずに書く。エディットモードのときは、ゴシック体で客観的に書いたことを点検していくなど。書くことは机上の作業よりも形式(制限)と身体(欲望)のあいだを往復する運動なのだと改めて思う。そして外的な規範に制限(去勢)されず欲望を展開させること。有限化の目的は、制限ではなく欲望の展開の方にある。
書くこととはつまり、何を書くかではなく「どう書くか」から動くことかも知れないと思った。書くという行為は誰にでもできるし、道具として言葉はある程度使えてしまう。もちろん「何を書くか」が問われるに違いないが、フィジカルな限界やメンタルの振幅と共にある自分の体と実直に向き合うことと、書くことの方法の創出は繋がっている。千葉さんが『勉強の哲学』で書かれているけれど、道具的な言語用法から玩具的な言語用法へシフトすること。つまり「言語それ自体として操作する自分、それこそが、脱環境的な、脱洗脳的なもう一人の自分であり」まず「自由の条件」となる。mimaculでやりたいことは玩具的な言語用法へのシフトと、方法の創出にあるように思う。「文体を歩く」とはそうことではないだろうか。
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