「五七五しちしち」
mimaculでは8月に俳句の回「五七五」をやった。七五調のリズムは下手をすると標語のようになったり歌謡曲の歌詞のようになったりするけれど、この制約をインストールすることで各々どのようなイメージを描くことができるか臨んでもらった。
ワークショップは歌会形式で行う。事前に3首提出してもらい、すべての歌を作者を伏せたリストにして全員に返送して良いと思った歌を3首(特選1並選2)選出する。そして顔を合わせた歌会のときに点数表を見ながら評し合い、作者を明かすという流れ。
短歌は全員ほぼ初心者なので、今回は詩歌に精通した案内人として岡田政信さんをお招きし、選評に加わっていただいた。
点数が入った歌を選者が評していく。歌会では自分で選ぶ段では引っ掛かりのなかった作品でも、人の読みを聞いて読めていなかった魅力がわかったり、自作が人の読みで膨らんで豊かになることもある。逆に説明的すぎたり、通俗的な言い回しを狙ったというより無自覚に使っている部分、まだ工夫の余地があると指摘されて見えることもある。一度俳句を経験すると、短歌の下の句の七七は「まだこんなにいっぱい言える!」というくらいの字数に感じられる。俳句が性に合っていると短歌だと言い過ぎている感覚になる。実際今回の歌会でも七七がいらない、上の句で完結しているのに…という歌もいくつかあった。
岡田さんは的確に蛇足になる部分や、改良の余地のある言葉を指摘しつつ、何より大切なことは自作に表れる各々の「私」にあたうる限りこだわれということを仰っていた。
つまり安易な共感や表面的な振る舞いとしての〈個性的らしさ〉をまとわず、わかりやすさを良きとせず、わかりずらくてもそれを言葉にすることにこだわること。何を詠むかや技術よりその手前の「〈歌〉はその人が口にしないことこそが形になっていくのではないか」。
歌の生成に言い得ぬこと、沈黙が重要だとすれば、詩歌を志す人は常々自らの静まりかえるところに耳を傾けていなければならない。短歌を選評するときも基準として如何にこの部分と深く付き合って引き出された言葉であるかを見ていけばいい。ただし言い得ぬことや沈黙の表出は、ナイーブさや自己完結を超えた「私」の言葉でなければならない。もちろんそこにリズム、ユーモア、言葉の選択センスも関わってくる。生や死や存在の本質的な孤独について直接的に言おうとすると重たくなりそうだけれど、本質的なことを如何に軽やかに詠み得たが総合して良い歌の基準であるように思う。軽やかさが単なる口語的、安易な軽さではないものとして、生きるために必要な軽やかなるものとしてあらわれること、物語ることへの従属からも自由になり意味が跳躍すること、そうして言葉で踊ることが詩歌における躍動なのではないだろうか。
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