「綴じられた語彙/鳥瞰と内観」



私たちは普段会話をするとき、各々の持ちうる語彙の範囲から反射的に言葉を選んで喋っている。身についた文法に従い、覚えている単語を連ね返答になりそうなことを口にする。

「綴じられた語彙」と題してこんな実験をしてみた。メンバーには戯曲、漫画、対談集など、台詞がたくさん書いてある本を持ってきてもらう。各々1冊選んで4人1組になり会話をする。ただし持っている本に書いてある台詞以外のことは喋ってはいけない。

つまり自分の語彙を外側に委ねるという感じになる。それぞれの本は別の内容について語っている訳だから当然脈絡のない会話になる。と思いきや案外会話ができる、ように聞こえる。意味が切断され、繋がらないこともあるけれど、関わりない内容でも返答として成立してしまう場合がかなりあった。もちろん意識的に会話を成り立たせる言葉を積極的に選んではいるから起こることではあるけれど。グルメ漫画とギリシア悲劇とスピリチュアルな内容の対談とさくらももこのコジコジのセリフが混ざり合う。生きている世界が異なるものたちがどうにか疎通をはかろうとするような、コミュニケーションの発生を見ているようである。ただ可笑しいというだけではなく、ズレながら展開される会話からはどこか瑞々しさすら感じられる。

そしてもうひとつ「鳥瞰と内観」というワークを試みた。

全員紙とペンを持ち、座っている。それを客観的に書くことから始める。どう描写してもいいけれど、外から見ているだけでは見て取れないことは書かない。例えば自分の思いなどを反映させないで、カメラの目で見て認識できることを追うようなこと。ずっと高いところから眺めてもいいし、近くのものをクローズアップで見てもいい。それを言葉で15分の間に描写する。

次に同じように紙とペンを持ち、座っているところから、今度は外側から見ているだけではわからないことだけを書く。内観というか、思いや体感を反映させていい。

そうやって書いた2種類の描写を書いた本人以外の2人に読んでもらいながら全員分比較してみた。同じ部屋で状況を同じにしても、描写の対象として拾い上げるものはそれぞれ違うし、同じことにフォーカスがあっていても書き方が違い、そこから視点が移っていく場所が違う。素朴に世界は人数分あるのだと確認する。

そして内側を書くということも何を内として設定するかによって変わる。例えば、その時の体の感覚、触覚や胃が重いなどの不調について書くということもあるし、思っていることを書き連ねる、今そこに座っている状況からは見えないけれど、そこに至るまでの過去の出来事を書く、などなど。ここで疑問に思ったのは、内側として書いている過去というのが、描写としては外側から書いている視点になっていたりすることだった。純粋に内面、内側の言葉というものを探るにはもう少し制限が必要かも知れない。さらにそれがどういうものであるかを考える必要がある。





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